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2022年8月 ミサ説教





2022年7月 | 2022年9月


年間第22主日

マヌエル・シルゴ 神父

8/28(日)10:00- 年間第22主日


 ルカの福音書は4つの部分に分けることができると言われています。いちばん最初に、イエスが生まれたときと幼子のとき、そのあと、ガリラヤでイエスがなさったこと、3番目はユダヤでいろいろなさったこと、最後に受難と復活です。


 今日は3番目のイエスがエルサレムに向かって歩いていらっしゃるところです。そして、歩いていく間には、いろいろなことが起こり、いろいろな人に出会うわけです。
 今日の福音書では、イエスが偉い人に食事に招かれたわけです。食事に行ったときイエスは、招かれた人々はここに入るときにはどういうふるまいで入ってくるかを見ていますが、いちばんいい席を取ろうとしているわけです。私たちにもよくあることですよね。


年間第22主日ミサ 主聖堂の祭壇とイエス様・天窓 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 イエスは、それを機会にお話しなさるわけです。話の中に、誘われた人々について、あるいはその人々に向かってお話しする。そして、人々を誘う人について、あるいはその人たちに向かって話すわけです。誘われた人々に対して、イエスは何をおっしゃるでしょうか。「謙遜でありなさい」です。
 誘われたときには、いちばんいい席をとろうとしてはいけない。いちばん小さくなって、いちばん遠いところに座って、そしておそらく、誘ってくださった方が来て、「どうぞ上の方に」と誘ってくださるわけです。これは、単なる礼儀のことではなく、イエスはここで私たちや当時の人たちに、一つの大事なことを教えてくださったと思います。


 心の持ち方です。人間は、社会的にどんなえらい人であっても、人間はやっぱり人間です。人間であるから、私たちには限界があります。
 自分の限界、足りなさ、罪を素直に受け止めて、謙遜に神様の前で許しと力を願うということは、本当の私たちの人間としての神様の前であるべき姿だと思います。イエス様はそれを、簡単なたとえ話を使って教えてくださったわけです。「低くなれば必ず神様に報われる」。


 もう一つは、誘う人がどういう態度でやるべきか、どういう人を誘うべきか。そして、招かれた人たちに対して、誘う人は何をすべきかと、イエスは簡単に説明なさっています。「誘う人は誘われた人のことを考えなければならない。自分のことではなくて、誘われる人たちには何が大切だろうか、何があれば喜んでくれるかを考えて、自分はあまりにも計算しないで、心を配って誘われた人にもてなす」。そういう心の持ち方をイエス様は話してくださったわけです。
 考えてみますと、イエスは私たちから何も待たないで自分だけで与えてくださるわけです。イエスは、こういうふうに生きて、こういうふうに私たちに生きるように望んでおられます。


 自分中心にならないで人のことを考えて、人々のために自分を尽くす。計算しないで人々に与える。今の私たちの住んでいる社会には、なかなかピンとこない生き方だと思いますが、「あげるからくださる」という生き方は、私たちの周りにも私たちの中にもあるような気がします。イエスはそういうことをしないで、「あげるからあげる」、「あげるからあなたを生かす」。イエスはこういう言葉をもって私たちに教えてくださったのは「生き方」なのです。


年間第22主日ミサ 主聖堂ステンドグラス「野の花と道」と壁にかかる光 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 イエスを信じる人たちはどういう生き方をすればいいか、イエスは自分がどういうふうに生きておられたか。「人のために生きた」のがイエスです。

 プロテスタントの牧師がイエスの定義をなさったのですが、「イエスは人のために生きた人」。それがイエスの生き方で、イエスはたとえ話をもって当時の人たちにも私たちにも教えてくださるわけです。
 簡単に教えられるのですが、実際に毎日の生活の中で人のために生きるというのは決して簡単ではないですね。私たちはまず自分自身を守ろうとしています。自分自身を生かそうとしているわけです。人を後回しにして、まず自分ということをふだん私たちは考えているかもしれません。


 イエスは自分の弟子たち、私たちに望んでおられるのは全然違う生き方です。自分のことを後回しにして、人のことを考えて人のために自分を尽くす。これは簡単ではない。私たちにとっては難しい。
 ですから、こういう生き方ができるためには、私たちは何をすればいいかといいますと、まず神様の力をお願いしなければならない。私たちの力だけではとてもとても難しい。だれでも自分を大事にしたい。だれでも自分を守りたい。だれでも自分の利益を考えて、そこには人に入らないように言う。


 イエスは人のために生きました。キリスト者の生き方は全く同じことです。今日のミサの中で、心を合わせて、それに向かって、キリスト者として歩もうとする私たちには、イエスはそういう生き方ができるための力を与えてくださるように願いたいと思います。

 もし教会は本当に言葉だけでなく行いをもって人のためにある教会なら、多くの人たちはそれに憧れて集まるだろうと思います。ミサの中で、教会のためにも、ここに集まった私たちのためにも、そういう生き方ができるように力と恵みを願いましょう。



年間第21主日

サトルニノ・オチョア 神父

8/21(日)10:00- 年間第21主日


年間第21主日ミサ お説教の様子・司式 サトルニノ・オチョア神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 ミサのはじめに申し上げましたが、今日の典礼のテーマになっているのは、「道」でしょう。神さまはただ一人ですが、道がたくさんあります。しかし、この典礼では、ある意味で逆です。人はたくさんいます。右からの人たち、左からの人たち、北の人たち、南の人たち、バラエティーに富んだ人たち、文化も言葉も違います。この教会は、その人たちの著しい模範だと思います。けれども道は一つです。私たちの道はイエス・キリストです。


 ただいま、アレルヤで歌っていましたが、「私は道であり、真理であり、命である」。この「道」であるイエス・キリストは、本当に間違いのない歩き方で私たちを導いてくださるし、本当の神の家に着くことになります。


 それから今日の「ヘブライ人への手紙」でも、決まり文句のような言葉が出てきたのではないかと思います。

 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
 主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
 なぜなら、主は愛する者を鍛え、
 子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」。


 たぶん皆さんの中では、自分の家族の中で、親は自分の子どもを愛しているので、鍛えなければならない。涙を流しても、懲らしめなければならないこともあります。
 主は親ですから、私たちを愛しているので、私たちを鍛えます。でも、悪い意味ではないのです。本当にそれによって私たちは懲らしめられても、親からの子育てのような感じで私たちは習って、難しい道を築くこともできます。


 日本ではこれは文化の中でできています。言葉としてもたくさんありますね。目標、チャレンジ、挑戦、力試し、あきらめきれない。これは、私たちが子どものときから、いつも私たちの文化の中で生き方の中に入っています。スポーツの世界の中や芸能の世界の中でも、やはり訓練をすることによって、練習をすることによって、ピアノを上手く弾けるようになり、きれいに踊りができることもあり、あるいは立派な医者になるということもあります。
 失敗もあります。しかし、失敗によって頭を下げて、その失敗により私たちは鍛えられて、それを乗り越える力を求めているのです。


年間第21主日 主聖堂・クリプタへの階段を外から見た様子。 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 私たちの信仰の道でも、このようなことがありますが、忘れてはいけないのは、努力をしなければいけないけれども、結果は「恵み」だということです。結果が思うようにならないときには、神さまに見捨てられているということではなく、もっと鍛えられるということになると思います。


 別の福音に、このような「道」の話がありますね。

 「主の道を整えなさい。主の道をまっすぐにせよ」。

 それは、洗礼者ヨハネの説教のポイントです。
 私たちはいつも、鍛えられることによって、挑戦し力試しをすることによって、私たちも自分の方から神さまへの道をまっすぐにし、一生懸命歩むことになればと思います。


 最後にもう一つの今日の福音で出てくる、決まり文句のようなことがあります。

 「狭い戸口から入るように努めなさい」。

 これはルカの福音ですが、たぶん皆さん子どものときから聞いたのは、この福音より、マタイの福音だと思います。
 明治時代から、すばらしい文語のような訳があります。日本の中学二年生の教科書で出ることにもなっています。
 「汝ら狭き門より入れ。けだし滅びに至る門は広く、その道も広くして、これより入る人多し。ああ生命に至る門狭く、その道も狭くして、これを見出す人少なきかな」。


 私たちも信仰の道を歩むなら、この狭き門を狙って、努力しながら神さまの恵みに心を打ち明けることになります。


 アメリカの20世紀の最も有名な詩人の一人ロバート・リー・フロストのきれいな詩では、「二つの道」のことを言っています(The road not taken:選ばれざる道)。
 山を登れば、分かれ道になっているポイントがあり、右の道は広くて見晴らしもよく、人の足跡はたくさんありました。左の道は狭くて岩も多くて、人の足跡もほとんどなかったが、私は左の道を選んだ。すばらしかった。


 私たちもイエス・キリストの道を選んだのです。十字架の道です。けれどもすばらしかった。



聖母の被昇天の祭日

サトルニノ・オチョア 神父

8/15(月)10:00- 聖母の被昇天の祭日


聖母の被昇天の祭日 ミサ中に奉納された会衆の平和を祈る祈願カード カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 みなさん、今のわたしにとっては、この聖母の被昇天のミサをあなたと共に捧げるということは、非常に感動しています。わたしにとってはこの日は特別です。多分信じられないくらいですけど、この日のことは、7歳のときからわたしはよく覚えている。場所も全部覚えている。


 1945年、わたしの国では、夏休みにあたるけれども、夏休みだけじゃなくて年度末です。そのとき、戦争が終わったばかりで国ではたくさんの結核の病気がありましたので、夏休みのとき海へ行くことなくできるだけ山へ、いい空気を飲ませようということで、母はいつも小さな村で、わたしたちと一緒に夏休みを過ごすことになっていたんです。


 この日わたしは、あのとき、思えば15日の夜の9時ごろ、あの村の新聞を取りに行ったとき、放送局があって、それで日本では戦争が終わったということがあったんです。7歳のわたしはよく分からなかったですけれども、戦争があるとか日本とか。けれども家に帰ってお父さんに新聞を渡したとき、彼はものすごく喜んでいたんですね。


 あのとき、ご存知のように、豊かな社会がなかったんですけれども、やはり何よりもまず「平和」ということが必要であった。
 思えば、あれから5年経って、1950年、そのときある意味で戦後の難しい時期が終わったばかりで、けれどもヨーロッパで、日本にも、ムードは、社会の雰囲気は、非常にペシミストだったんですね。いろんなことがあって、まだまだ治れない傷が、心の傷もたくさんあったんですが、社会は病気だったみたい。


 そのときヨーロッパでは、カミュ(Albert Camus)とかサルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre)とか、わたしたちは今ちょっと忘れているんですけど、あのとき非常にペシミストのような哲学者とかたくさんいました。人間には救いがないということです。人間は、人間の存在そのものは矛盾ですと言ってたんです。救いがないということ。


 そのとき、ローマでピウス12世(第260代ローマ教皇)が、聖母の被昇天をカトリック教会の教義の一つとして宣言しました(※ピウス12世は1950年の大聖年にあたり、聖母マリアがその人生の終わりに、肉体と霊魂を伴って天国に挙げられたという「聖母の被昇天」を正式に教義として宣言しました)。
 みなさんご存知のように、聖母マリアについて、3つの主な教義があります。聖母マリアは神の母です。聖母マリアは無原罪です。聖母マリアは被昇天。身も魂も完全に救われているのです。


聖母の被昇天の祭日 主司式のオチョア神父と共同司式のガラルダ神父 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 わたしは中2だったんです。まだ覚えているんですけれども、わたしたちにはお小遣いは非常に安かったのでカンパして、中2の1人の代表としてローマへ送ったんですね。
 あれだけヨーロッパのムードが変わってきたんです。ローマでピウス12世はですね、身も心も救われる。それで身も、魂だけじゃなくて身もわたしたちにとっては、とっても大切なものです。それは本当にピウス12世の教義の宣言によって、教会にも社会にもどんどんどんどんムードが変わってきてそれから成長したわけです。


 いろんな歴史の専門家は、たぶんこれは戦後の終わりです。そのとき本当にいろんな問題があったにしても、社会はもっと楽観的に、仕事もいろんな研究もして、その一つの結果は、体を大切にするということは、たしかに今のスポーツの選手を見ると、あるいはバレリーナを見ると、わたしたちは、体は汚いものではない、体は心の表現です。もっとあえて言うと、体なしにわたしたちは自分の心を表すことができませんということです。


 これはマリア様のことです。マリア様はこの体をもってわたしたちに救い主をもたらしてくださいました。それでこの救い主はイエス・キリストご自身も聖ヨハネの福音でいえば、御言葉は肉となった。肉はより強いことばです。御言葉は、神。肉となった。わたしたちとともに住まわれたのです。これはわたしたちにとって、聖母マリアのおかげだと思います。それによってわたしたちはやはり体の素晴らしさ、体の本当に聖なるものであるということはわかるようになりました。いちばん強くわかったのは多分聖パウロです。聖パウロの「コリントの信徒への手紙」では、この強い強い箇所もあります。


 ご存知のように、コリントは港町です。それで、一つの港だけじゃなく、東にも西にも港があって、その結果はやっぱり堕落していた町です。コリント人の信徒たちも堕落していたんです。いろいろなスキャンダルもあったんですね。そしたらパウロは手紙を書いて、彼らに送って、その手紙の中で「まだ知らないのか。あなた方の体は本当の神殿です」と。


 わたしたちは教会へ行けば、神の家に行くと考えているんですけれども、そうではないのです。この聖堂は、神の家よりも民の家です。本当の神の家はわたしたちの心です。本当にわたしたちは一人ひとり、病気であっても年であっても、あるいは若い人たちでも、わたしたちは一人ひとり、神の神殿である。だから、わたしたちはこの体をきれいに、祈りながら受け入れる。それできれいにする。それで鍛える。そういうことによってわたしたちは神様の救いの表現になります。祈りになっています。
 体はある意味でわたしたちの心の秘跡です。ミサではわたしたちは神の、イエス・キリストの体と結ばれる。それによって本当に神殿になっています。わたしたちですよ。聖堂ではない。


聖母の被昇天の祭日 主聖堂で見守るマリア様 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 けれども、最後にこれを言いたいんですよ。パイプオルガンがあります。けれども、今日はあれだけ大きな祝日にもかかわらず、パイプオルガンが聞こえない。今、パイプオルガンは検査中です。オーバーホールです。診察を受けているわけです。お見かけによらず、パイプはたくさんありますけれども、見えないパイプはすごいです。なんと3146本です。もう一度繰り返します。間違っていない。3,146本です。全部1本ずつ分解してきれいにして、わたしたちのパイプオルガンは、あと2~3週間たったら、もう一度本当にわたしたちの祈り、わたしたちの声になります。パイプオルガンは物質ですけれども、わたしたちの祈りのことです。


 被昇天のときは聖母マリアのおかげで、わたしたちはこの魂だけじゃなく、体も救い、そのイエス・キリストの救い、それからマリア様の救いに与ることを信じております。希望を知っています。お祈りしながらその希望を養っていきましょう。

 わたしたちの下にクリプタで眠っている人たちのおかげで、わたしたちは今祈っている。
 このようなことを思いながら 本当にわたしたちも社会の中で、物質的にも霊的にも一つになってこの完全な救いに与ることができますように。



年間第20主日

ハビエル・ガラルダ 神父

8/14(日)10:00- 年間第20主日


 今日の典礼のメインテーマは「平和」です。広島、長崎、8月15日、ウクライナなどを背景に、平和について考えましょう。

 イエス・キリストのメッセージには、平和ということは非常に中心的です。
 「私はあなたがたに平和を残す。わたしの平和をあなたがたに与える」とイエス様がおっしゃいました。


 そして、復活してから、ご受難と死をもって獲得した平和を弟子たちにあげます。
 「あなたがたには平和がありますように」

 そして、弟子たちを福音宣教に送り出すときには、「家に入るときには、この家に平和があるようにと願いなさい」
 つまり、平和は非常に中心的です。


 それにもかかわらず、今日の福音を読むと、「えー」と思います。
 「わたしが平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。むしろ分裂だ」

 えー、ショックですね。そして、
 「わたしは地上に火を投ずるために来たんです。分裂が起こるでしょう」
 どうなってますかねぇ…。


 それは簡単ですよ。偽りの平和もあれば、本当の平和もあります。イエス・キリストは、偽りの平和に火を投ずる。それを壊して、新しい本当の平和を入れるつもりで。そのために来ました。


年間第20主日 主聖堂 イエス様と祭壇 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 今のことをもうちょっと説明しましょう。偽りの平和というのは、平和的妄想(もうぞう)といいましょうか。エレミヤ預言者は、それが大嫌いでした。7章の15節にエレミヤがこのような言葉を言います。
 「指導者たちは、権力者たちは、民の破滅を手軽に治療して、平和がないのに、平和、平和という。それは欺瞞的(ぎまんてき)です」 民の苦しみをちょっとだけ癒して、平和がないのに、平和、平和と言うのです。それは大嫌いです。


 つまり、この偽りの平和はこれです。武器の音は聞こえません。家族と仲間の中では、けんかの大声は聞こえません。しかし、この雰囲気の中の上に残っている人たちは気楽にいられるのですが、下に置かれている者は、非人間的で苦しい状態で悩んでいます。これを平和と呼びます。


 その平和に対して、イエス・キリストは、地上に火を投ずると言うのです。火は燃やす、痛い。ところが、清めるのです。今の欺瞞的平和を清めて、本当の平和を作るために来たのです。


 本当の平和とは何かと言いますと、それはキリストの平和ですね。主の平和、すなわち、「互いに愛し合いなさい」という掟から生まれる平和です。愛と正義によって作られる平和です。すなわち、互いに分かち合って助け合って、下に残される人も人間らしく生きられるような状態は、本当の平和、キリストの平和。それをつくるために来ました。そして、わたしたちはクリスチャンですから、キリストのようにその平和のために働きかけるはずです。


 わたしたちは、できるだけ平和の運動と正義の運動のためにかかわるほうがいいと思います。個人として。でも、いろいろな妨げがありますね。その運動には、政治的なものも入っていたり、あるいは面倒くさいとか、あるいは忙しいとか、いろいろな理由で無関心になります。その理由は建前で、本音は無関心。できるだけ関わるように。


 ところが、いろいろな理由で人にかかわることができない人は、どうすればいいのかと言いますと、祈る。平和を信じて飽きずに願い続ける。本当に平和のために祈るのです。それは、社会の平和、世界の平和に対する、クリスチャンの役目。かかわること、祈ること。


 世界と社会よりもっと具体的なことを考えましょう。わたしたちの周りの人々との平和を考えましょう。大切な人だとされている人との平和。どうなっているでしょうか。ちょっと反省しましょう。耳が痛くなるかもしれませんけど。


年間第20主日 主聖堂脇のお庭のマリア様 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 これというけんかはないかもしれませんけど、その理由は、あまりにも心が遠ざかっているので、けんかができないほどになった状態です。あるいは、けんかがあったけど、そのけんかの後味として、恨みが残る。相手を許したくないという気持ちがあるかもしれません。あるいは、相手を裁く。相手の行いと言葉をいつも悪く解釈したり、あるいはその人を心の中で見下しているかもしれません。見下していると同時にねたんでいるかもしれません。つまり心が遠ざかっています。それも平和的ムードです。偽りの平和です。


 イエス・キリストが望んでいるのは、「あなたもその平和に対して火を投ずるようにしなさい」。つまり、「愛しなさい」ということです。イエス・キリストの解決はいつもそうですね。「互いに愛し合いなさい」。すべての命の生まれです。「その人を本当に愛しなさい」


 要するに、その人に対して心を開いて近寄ってみてください。その人の立場からもいろいろなことを見るようにしなさい。その人の良いところも見てください。感謝の気持ちで心をあたためてください。前よりも仲良くなりなさい。この平和を作るように、イエス・キリストは望んでおられます。


 けっきょくは、愛には、相手の愛を引き起こす力があります。逆に言えば、恨みと軽蔑には、相手の恨みと軽蔑を引き起こす力があるのです。愛をまけば、やがて愛が実ってきます。恨みと憎しみをまけば、やがて憎しみと恨みが実ってきます。


 天に上げられた母マリアに願いましょう。あなたの息子の本当の平和をください。それを願い求めます。
 みなさんに、主の平和。



年間第19主日

ホアン・アイダル 神父

8/7(日)10:00- 年間第19主日


年間第19主日 朝焼けの鐘楼 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 今日の朗読3つとも、とてもありがたい大切な教えを私たちに伝えようとしていると思います。テーマは、「忠実な僕(しもべ)、良い僕はだれであるか」ということです。


 私たちもみな、イエスの良い弟子になりたいので、はっきりした教えはありがたいものです。

 私たちが一般的に、「あなたにとって、良い僕はだれですか。どのような僕ですか」と聞かれたら、たぶん私たちはいろいろな答えを出します。一生懸命働く僕ですとか、静かに働いてあまり問題を起こさない僕だとか、私が言ったことだけではなく自分からも頑張って考えてやる僕とか、いろいろな答えが出てくると思います。


 あいかわらず、イエスの答えは私たちの答えとは違います。イエスは少しびっくりさせることを言って、「良い僕は、希望をもつ僕」と言ってます。イエスのイメージを使えば、「主人が戻ることを待つ僕」、「主人が戻ることを信じ続ける僕」、「希望を持ち続ける僕」が良い僕だと、イエスは言ってます。

 良い僕、イエスの良い弟子になるために、何より大切なことは、希望を持ち続けること。これが、今日の福音の祈りのヒントだという気がします。


 幸いに、今日の典礼はそれで終わらず、いくつかの具体的な例も出してくれます。神様からみれば、良い僕、待ち続ける僕はだれであるかを、特に第二朗読では、みなさんが読まれたのは、ある部分だけですが、家に戻ったら全部読むといいと思います。


 「ヘブライ人への手紙」のこの部分は、本当にすばらしいです。そこに出されるたくさんの良い僕たちの姿、アブラハムやヤコブが出てきますが、この人たちはみな、違うことをした人たち、違う時代に生きた人たちですが、一つの共通点があります。みながリスクをもって、小さな世界から外へ出た人たちです。イエスが言う「希望を持つ人」の特徴、共通点です。希望を持つ人、神様に希望を持つ人は、恐れずにリスクを持って、自分の小さい世界から外に出る人です。


 いちばん最初に出てくるアブラハムは、とても良い例ですが、彼は神様に呼ばれて、「行先も知らずに出発したのです」。これは希望を持つ人の良いイメージだなと思います。

 そのあとにくる人たちは、みな希望の表し方が違うのですけど、私たちもそうだと思います。私たちの間で、良い僕として生きる希望を持つことは、人によって違うと思うのですけど、ある人には、神様をずっと心の中で呼びかけている、その呼びかけに答えることです。信仰をもって、希望をもって、ミッション、呼びかけに答えることです。


 ある人にとって自分の世界から出ることは、人を許すことかもしれません。人を許すためには自分の世界から出てリスクをとらなければなりません。あるいは逆に、許しを願うこと。これも大きなリスクであるし、自分の世界を壊す行動です。いろいろなことが考えられると思います。中途半端な信仰の生き方をやめて、聖人になることを心から願うことかもしれません。あるいは、自分の文句の多い暗い世界から出て、神様の言葉を信じてもっと喜んで生きること。


年間第19主日 主聖堂ステンドグラス「魚と網」 カトリック麹町 聖イグナチオ教会

 いろいろな希望の表し方があると思うのですけど、共通点がそこにあります。良い僕は必ず外に出る。みなさん、気がついたかもしれませんけど、福音では良い人たちはみんな出る。マリア様とヨセフ様はベツレヘムから出る。三人の博士たちは出る。みんな出る。出ないのは悪いやつです。ヘロデはいつも自分の神殿の中にいて、そこから動かない。
 教皇フランシスコも「出ましょう」と言っているのですけど、これを心にとめましょう。


 私は、神学を勉強していたとき、日本人の先生が言ったことを、今でも覚えていて心に残っています。その先生が言っていたことは、「日本の教会は、愛が強い。信仰も強い。だけど、希望が弱い」ということです。不思議な言葉ですけど、今でも何を言っているのかはよくはわからないのですけど、考えさせられる。なんとなく、当たっているような気がします。

 思い切り働く人が多い。自分の信仰をまじめに生きようとしている人も多いです。ただ、もしかすると、イエスが言っているように、私たちはあまりにも自分の小さな世界に残るとか、外に出るリスクを持つ、神様の声に耳を傾ける、それは弱いかもしれない。

 この厳しい言葉も心にとめて、イエスはわれわれを良い僕にしてくださることを願いましょう。


 最後ですけど、この福音の最初の言葉がとても美しい。

 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」

 この言葉は、たしかに希望のもとである。

 「小さな群れよ、恐れるな。神様は喜んであなたたちを助ける。喜んで家に帰る。喜んで自分の約束を守る」

 この言葉を心にとめながら、イエスはわれわれを希望のある良い僕、リスクをもって家から出る良い僕にしてくださることを願いましょう。



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